戦争を風化させない

会員・スタッフ近況

慰霊行為は宗教か?

服部章さん服部章さん服部章さん

 慰霊祭が終わった後、昨年は日本人学校の講堂で、そして今年はニッコーホテルのホールで三田雅楽研究所による雅楽演奏と舞楽のパフォーマンスがありました。三田さんも同感なのが、折角の機会なので古典芸能としての雅楽や舞楽を目の前でエンジョイしていただきたい、というのが例祭後の公演です。ご英霊へ奉納するのは「自己犠牲を忘れていません」という気持ちと「思い出してください。そして楽しんでください」が合わさったようなもので、演者はですからお社に向かって演じます。不幸をいえば、我が国はその慰霊行為も古典芸能や美の世界への誘いにも遠ざかっているのが目立ちます。宗教が祈るところから始まるのであれば慰霊行為は宗教的といえます。しかし戦没者への慰霊は宗教が必要とする教義しきたりはありません。神官や住職、神父によって導かれますがその先には御霊の存在があるだけで教義に行き着きません。であるから慰霊祭を「宗教的」と行って忌避する人は祈りの本質を知らないと言えます。本当は面倒臭いか興味さえないのが本音です。  パフォーミングアートの世界は表現する側に熱意がないと空回りしてしまいます。練れたパフォーマーが演じるとそこに空気で感じる美しい世界、幽玄が広がります。本来観劇する側にそれなりの素養があるとより芸の深さを味わえるのでしょうが今日、そういうオーデアンスは多くはいません。とはいえ素養になれば、それを知ってもらいたいという希望で学校校長が公演を依頼し、ホテルはニッコーという日本のホテルへ泊まるゲストに日本の様式美を見せたい、という欲で公演を依頼してきました。個人的に結構な出費で来島するのでせめて僅かな一助になれば、と骨を折るのですが思うように運ばないのが無念の極みです。この公演は成功しています。想像もしていなかった場所で時間で本物のアートに触れた幸運をいつの日にかそれを実感するでしょう。それが素養の原点だからです。いつの日にか会が戦争だけではなく日本の歴史も含めた「風化をさせない」ために汗をかく人たちの集団になればいいですね。(芳賀)



手伝い人カーティスの涙

手伝い人カーティスの涙手伝い人カーティスの涙

 昨日前社員だったカーティスの妻ジャージーの葬式がありました。見た目ギャングのような出で立ちと顔つき、風来坊的なチャモロ人には珍しく8年近くも働きながら、妻の勧めで退社し(高給で)誘われた会社に入ったのですが途端に条件が違うことがわかり、といって戻ることもままならない間にあちこち職を転々としている間に妻が癌とわかったのでした。
 カーティスは本人の弁によりますと、子供の頃から親や親戚に恵まれず一人ぼっちに育ち、ずっと孤独で今は親が残した小さな家に子供4人の家族で住んでいます。人情に恵まれない分だけ精神的に強くなり、決して自分や他人を誤魔化さず、金銭にも恬淡でした。珍しいことです。その彼に愛情を寄せたのがジャージーでした。彼はチャモロ人には珍しく彼女を籍に入れ正式な妻として結婚し30近くで4人も子供に恵まれました。お金に恬淡としているから決して楽な暮らしとは言えない分だけよく働き、私のところでも(トレッキングガイドですから)突然の呼び出しに嫌な顔をせず、どんなにハードなスケジュールでも笑顔で対応するので会社のヒーローでもありました。初めての(ホテルへ泊りがけ)クリスマパーティがあったとき、食事の後で夫妻をカラオケに誘ったら(これまで人前で歌ったことがないので)ジッと他人(実際は私)の下手くそな歌に聞き入っていました。執拗な勧めに酒をぐいとあおってこれまた下手くそな、とは言え人生初めての声を披露してくれました。それから毎年パーティになると彼は声を詰まらせながらその幸福感を口にし感謝の言葉を述べてくれました。不思議と彼から礼を言われると救われた気になったものです。彼にとっては人情味溢れた本当のクリスマスだったのでしょう。最もカラオケは(私同様)最悪でしたけどね。
 会が最初に慰霊祭を行った時からの同志で(4回まで続いた)、意気に感じてかとてもよく動き主幹であるジーンを手助けしていました。彼の陽気なところや剽軽なところが日本人学校の先生に受け、日本人からのゲストにも親しみを与えていました。何事にも一所懸命ひたむきに仕事に励み、その喜びを身体で表現すると不思議とこちらも幸福になれたものです。我々日本人はつい人目を気にしながら行動するのでとても新鮮でした。そういう男であるから慰霊祭などでの無料奉仕の場でもこまめに動き回り面倒がらずによく手伝ってくれました。彼に親しさを特段に持つのはそういう性格だからでした。
 ジャージーの葬儀場に神父はおらずテープでミサが流れていました。可哀想でした。その式場の前の棺の側で愛妻を失った彼が真っ白なシャツを着て途方に暮れながら塞ぎ込む様は先だって会った時より遥かに痩せ衰えてみえました。いつの日にかまた私の所へ来るでしょうからその時は温かく迎えてあげようと思いました。とその時、彼の周囲を見回したらその小さな300人ほどの教会の中がほとんど満席だったのです。私が思うほど彼はもう一人ボッチではなかったのです。彼の人徳を感じました。いつの日にか私を訪ねてくるでしょう。その時は思い切りハグをしてあげたいものです。自分は不幸な身でありながら幸せを運ぶ男なのですね。
 手前の坊主頭がカーティス、そしてジャージー。(芳賀)



服部章さんが帰国

服部章さん服部章さん服部章さん

 およそ20年間にわたって一緒に慰霊に関わることに携わってこられた服部章さんが帰国しました。20年前に私のところへ来て「是非慰霊塔のペンキ塗りを手伝わせてください」と申し出てくれたのがきっかけで、それが私の励みであり絶えることない事業への情熱でありました。いつも私の味方をしてくださり、私の立場や辛さ哀しさも全部吸収してくださり共に苦労を分かち合い慰めあった恩人であり戦友でもありました。我々への非礼に憤って当時の総領事を衆目の前でたしなめたほどの硬骨漢でもありました。どんな時でもめげず変節せずに背中を押してくれたものです。服部さんで一番印象に残っているのが一番最初の慰霊祭を展望台で行った時のこと、それまで何度も希望し期待していたのに担当者が無責任で実現せず挫折していた白鳩の放鳩でした。最初の慰霊祭の時、30羽の鳩が一斉にアサンの戦場を飛翔している様に服部さんが滂沱の涙を流し抱きついてきたのを今でも忘れません。これでご恩返しができたと思ったものです。服部さんは我々の中でいつも陰になって支えてくれた大切な仲間です。84歳になっても慰霊に対しての情熱は変わらず「兵隊さんのことを思うとね」というのが口癖でした。
 服部さんは川崎の実家へ戻ります。奥さんと娘さん、孫に囲まれた幸せな暮らしが始まるようです。残された私たちは寂しくなりますが、これまでの功労を思えば引き留める訳にもいかず、さよなら夕食をしました。家内とジーンが一緒でした。ジーンもまた服部さんとは深い仲でした。まあ元気なうちに帰国されるのですから「良し」としましょう。また会えるのですからね。
 とはあれ、服部さんありがとうございました。そして本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。(芳賀)