戦争を風化させない

会員・スタッフ近況

「グアム鎮魂社崇敬賛助会」の役員であったステファン・スチーブ・クルツ(StephanCruz)さんが心不全で65歳で急逝しました。2024年10月12日

クルツと小野剛賢
 

グアムサイドの「グアム鎮魂社崇敬賛助会」の役員であったステファン・スチーブ・クルツ(StephanCruz)さんが入院先のマニラの病院で2024年10月12日、心不全で65歳で急逝しました。氏の父親はグアムの名士であるバック・クルツさんでバックの父、兄は戦時中日本軍によって殺害されています。戦後彼はメリッソ村村長になり受難場所に慰霊碑を創建しています。クルツさんは「誰も好んで戦争を始めたのではないのだからもう許そうではないか」と村民に訴え、それがグアム全体の空気となりました。
 バックさんは7年前に亡くなり、その長男のスチーブさんは長年警察署長を務めていた経験で地元の警備会社を経営する傍らグアム鎮魂社崇敬賛助会の役員を快諾しました。父親が慰霊祭に深く関わっていたからでした。気さくで穏やかで話しやすい人柄でした。謹んでお悔やみを申し上げます。
(写真、2019年慰霊祭、ローカル慰霊式でメリッソを訪問時のスチーブ、左は岸和田の小野剛賢薬師院法主)


トニ・マリア・レミレツ(Toni “Malia” Ramirez)さんが、グアムの病院で亡くなりました。病名と年齢は不明です。2024年10月24日

トニ・マリア・レミレツ
 

トニさんは一見男性のようでした。彼女は地元公園局に勤める傍らグアム史に造詣が深いので知事や政府のブレーンになっていた人です。彼女を失った事で今のゲレロ知事はショックを受けたようです。私とはグアム観光に携わっている関係で長年の付き合いになります。彼女が清水家の縁者であることもあってグアムと日本人の関わりに関心が深く、主宰している慰霊祭はその前身の「青雲の会」から清掃と慰霊に携わり、鎮魂例祭に欠かせない人でもありました。またローカルの慰霊祭もいつも一緒していました。穏やかで心清らかな人でした。観光業が思わしくない現在、彼女は常に「観光はショッピングではない歴史と文化である」、といい続けていたグアム観光に欠かせないご意見番でした。ご冥福を心からお祈りします。
(写真右がトニさん、隣が杉田水脈さん、アサン村長、下地幹郎さんの隣にグアム政府の大功労者であり下地さんの友人であった故トニー・アンピンゴさんの夫人、於・第五回鎮魂例祭)

 


崇敬賛助会の会長ギル・篠原さんが8/25午前、末期癌で逝去されました。64歳でした。2024年8月28日

ポール・清水とギル篠原shinohara
 

訃報です。

戦没者慰霊祭に好意を寄せて様々な面から支援をしていただいた「グアム鎮魂社」崇敬賛助会の会長ギル・篠原さんが8/25午前、末期癌で逝去されました。64歳でした。

  2023年5月、20年ぶりに来襲した超大型台風オマーが来襲し、その風圧で政府庁舎の「鎮魂神社」の鳥居、看板などを薙ぎ倒し、神殿の屋根を吹き飛ばしたのですが、篠原さんが彼のファミリーを使って復興に協力しようと快く申し出てくれ見事に復元してくれました。

氏は慰霊祭の式典に限らずどのような所で奉仕をしても誠心誠意尽くしタイトルや名誉に拘泥する事のない美質を持っている人でした。名前が示すように義理を大切にする人で日本の若者に紹介したい人でした。

多くの思い出と共に感謝の気持ちでご冥福をお祈りすると共に謹んでお知らせします。

「戦争を風化させない会」グアム崇敬賛助会会長のポール・清水さん(65)が急逝しました。2022年3月31日

ポール・清水さんポール・清水さん
 

  ポールさんは父が興した日系企業の卸会社「アンブロス」の常務取締役で、若い頃はロックバンドのリーダーかつプロデユーサーでサンタナをグアムに招聘した手腕がありました。現在はグアム政府観光局の副理事長を務め日本人観光客の誘致に熱心でした。
  彼は日本人と会う度に「日本語が話せず申し訳がない」と大きな身体をかがめて謝るほど、日本人の結縁(祖父一二は明治時代に移住)に誇りがあり、日本人をとても尊敬していました。  毎年慰霊祭にドリンクを提供していて、コロナ禍の一昨年から神社に深い敬意を持つようになって「グアム鎮魂社崇敬賛助会」の会長に就任していました。慰霊祭を通じて日本の多くの日本人有志と関わりが持てるので非常に楽しみにしていたのです。
  心がけの美しい日系人で、私たちが見失しなっている日本人的なハートを持っていました。 会にとっても惜しい人を亡くし、非常に残念な’思いです。  心からポールさんのご冥福をお祈りします。

訃報! 2022年3月29日

田村弘正さん田村弘正さん
 

 長年にわたって「戦争を風化させない会」の副会長として会の相談役であった田村弘正さんが先々日ご実家の山梨県石和市でご逝去されました、84才でした。

 田村さんはグアム戦争に参戦した参謀長田村義冨中将の外甥で、山梨県の田村一族は陸軍中将田村恰与造を筆頭に4人の将軍を輩出した名家で本家は刀鍛冶を生業としていました。

 生前の田村さんは持病をおしてグアムの鎮魂祭に幾度となく参加され、義冨中将はじめ島で戦没されたおよそ2万名の将兵のご慰霊を筆頭に立って行っておられました。その姿勢には多くの学ぶべきものがありました。

謹んでご冥福をお祈りします。

靖國神社権宮司、坂 明夫(享年68歳)様が、去る1月30日に帰幽いたしました。2020年

靖國神社権宮司、坂

 靖國神社権宮司、坂 明夫(享年68歳)様が、去る1月30日に帰幽いたしました。 ここに謹みて哀悼の意を表し、お知らせ申し上げます。
 
 お会いしたのがずっと前の2008年。その前に靖国神社でお会いして「靖国で会おう、といっていたご英霊をグアムへお迎えに来ていただけますか?」というのがきっかけで、グアムの西南部アガット村に戦没者記念碑を創建した際、 お願いしてご奉仕して頂いたのが靖国神社との交流の始まりでした。お会いする度に銀髪が混じったパサパサな頭に丸メガネの向こうでニッコリ笑って下さり憩いのひと時がありました。  
 それからお礼もあって度々九段坂へ表敬訪問したのですがその度に本殿に上げてくださり、 ご英霊の御霊に触れご英霊の励ましを感じ取りそれが今も情熱となって残っております。  
  坂様のご縁で多くの神職様とご縁が出来ました。心から感謝すると共にご冥福をお祈りします。



手伝い人カーティスの涙 2018年

手伝い人カーティスの涙手伝い人カーティスの涙

 昨日前社員だったカーティスの妻ジャージーの葬式がありました。見た目ギャングのような出で立ちと顔つき、風来坊的なチャモロ人には珍しく8年近くも働きながら、妻の勧めで退社し(高給で)誘われた会社に入ったのですが途端に条件が違うことがわかり、といって戻ることもままならない間にあちこち職を転々としている間に妻が癌とわかったのでした。
 カーティスは本人の弁によりますと、子供の頃から親や親戚に恵まれず一人ぼっちに育ち、ずっと孤独で今は親が残した小さな家に子供4人の家族で住んでいます。人情に恵まれない分だけ精神的に強くなり、決して自分や他人を誤魔化さず、金銭にも恬淡でした。珍しいことです。その彼に愛情を寄せたのがジャージーでした。彼はチャモロ人には珍しく彼女を籍に入れ正式な妻として結婚し30近くで4人も子供に恵まれました。お金に恬淡としているから決して楽な暮らしとは言えない分だけよく働き、私のところでも(トレッキングガイドですから)突然の呼び出しに嫌な顔をせず、どんなにハードなスケジュールでも笑顔で対応するので会社のヒーローでもありました。初めての(ホテルへ泊りがけ)クリスマパーティがあったとき、食事の後で夫妻をカラオケに誘ったら(これまで人前で歌ったことがないので)ジッと他人(実際は私)の下手くそな歌に聞き入っていました。執拗な勧めに酒をぐいとあおってこれまた下手くそな、とは言え人生初めての声を披露してくれました。それから毎年パーティになると彼は声を詰まらせながらその幸福感を口にし感謝の言葉を述べてくれました。不思議と彼から礼を言われると救われた気になったものです。彼にとっては人情味溢れた本当のクリスマスだったのでしょう。最もカラオケは(私同様)最悪でしたけどね。
 会が最初に慰霊祭を行った時からの同志で(4回まで続いた)、意気に感じてかとてもよく動き主幹であるジーンを手助けしていました。彼の陽気なところや剽軽なところが日本人学校の先生に受け、日本人からのゲストにも親しみを与えていました。何事にも一所懸命ひたむきに仕事に励み、その喜びを身体で表現すると不思議とこちらも幸福になれたものです。我々日本人はつい人目を気にしながら行動するのでとても新鮮でした。そういう男であるから慰霊祭などでの無料奉仕の場でもこまめに動き回り面倒がらずによく手伝ってくれました。彼に親しさを特段に持つのはそういう性格だからでした。
 ジャージーの葬儀場に神父はおらずテープでミサが流れていました。可哀想でした。その式場の前の棺の側で愛妻を失った彼が真っ白なシャツを着て途方に暮れながら塞ぎ込む様は先だって会った時より遥かに痩せ衰えてみえました。いつの日にかまた私の所へ来るでしょうからその時は温かく迎えてあげようと思いました。とその時、彼の周囲を見回したらその小さな300人ほどの教会の中がほとんど満席だったのです。私が思うほど彼はもう一人ボッチではなかったのです。彼の人徳を感じました。いつの日にか私を訪ねてくるでしょう。その時は思い切りハグをしてあげたいものです。自分は不幸な身でありながら幸せを運ぶ男なのですね。
 手前の坊主頭がカーティス、そしてジャージー。(芳賀)



服部章さんが帰国 2018年

服部章さん服部章さん服部章さん

 およそ20年間にわたって一緒に慰霊に関わることに携わってこられた服部章さんが帰国しました。20年前に私のところへ来て「是非慰霊塔のペンキ塗りを手伝わせてください」と申し出てくれたのがきっかけで、それが私の励みであり絶えることない事業への情熱でありました。いつも私の味方をしてくださり、私の立場や辛さ哀しさも全部吸収してくださり共に苦労を分かち合い慰めあった恩人であり戦友でもありました。我々への非礼に憤って当時の総領事を衆目の前でたしなめたほどの硬骨漢でもありました。どんな時でもめげず変節せずに背中を押してくれたものです。服部さんで一番印象に残っているのが一番最初の慰霊祭を展望台で行った時のこと、それまで何度も希望し期待していたのに担当者が無責任で実現せず挫折していた白鳩の放鳩でした。最初の慰霊祭の時、30羽の鳩が一斉にアサンの戦場を飛翔している様に服部さんが滂沱の涙を流し抱きついてきたのを今でも忘れません。これでご恩返しができたと思ったものです。服部さんは我々の中でいつも陰になって支えてくれた大切な仲間です。84歳になっても慰霊に対しての情熱は変わらず「兵隊さんのことを思うとね」というのが口癖でした。
 服部さんは川崎の実家へ戻ります。奥さんと娘さん、孫に囲まれた幸せな暮らしが始まるようです。残された私たちは寂しくなりますが、これまでの功労を思えば引き留める訳にもいかず、さよなら夕食をしました。家内とジーンが一緒でした。ジーンもまた服部さんとは深い仲でした。まあ元気なうちに帰国されるのですから「良し」としましょう。また会えるのですからね。
 とはあれ、服部さんありがとうございました。そして本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。(芳賀)